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何日ぶりかのブログ更新。私にとっては1ヶ月くらい間をあけていたつもりだが、実際は五日程度か。とブログを書き始めたものはいいが特に書くことはない。だから私の近況や心情について書こうと思う。

 

元々ブログを書き始めた理由は大した理由ではない。一番最初にブログを書き始めたのは去年の二月だった。ブログの使い方はこのブログと大差ない。本来は日記やエッセイのようにブログは書くものだろうが、(少なくとも僕はそう思ってる)書くことは社会的な批評だ。このブログの概要欄に「Twitterでは言えないこと」とあるようにTwitterでは忌み嫌う語りで物申している。そもそもTwitterでは忌み嫌われるとはどういったことなのか。どういった心理なのか。それはこのブログで扱う話題は敵を作るだけだと思っていたからだ。それはどういうことか、例えば認識あるものほど政治については語らない。様々な主義者が入り乱れる空間であるがゆえに自分とは正反対の人間もいる。それだけなら別にいいことだが、それらが衝突しあい不毛な戦いがずっと続いてる空間なのだ。空っぽな人間ならその状況すらも楽しめるのだろうが私は中途半端に知識があるため何が問題なのかの認識ができ不快感しか感じられない。しかし言えることなど何もないのだ。

 

 

ここで余談だが、「文化的雪かき」という言葉がある。これの出典は村上春樹だが、それは「ダンスダンスダンス」という小説で述べられている。

 

何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いているんです。雪かきと同じです。文化的雪かき。

 

これには様々な解釈があるが僕が面白いと思ったのは、

 

ちょっと皮肉的なニュアンスで書れています。「なんでもいいのさ、意味なんてないのだから」という感じ。でも僕はこの文化的雪かきは、とても大切なことだと思うのです。

この社会は、あまりにも情報が多すぎます。
情報は、僕等のまわり降り続ける雪のようなものです。それは無造作に、永遠に、ときに暴力的に、ぼくらの周りに降り積もっていきます。それで景色や進むべき道が見えなくなる。
それで思考の道筋が見えなくなって、道に迷ってしまうことがあります。

だから誰かがその積もった雪をかいていかないといけません。道や、世界の輪郭をはっきりさせなくてはいけない。それがこの社会における、文章を書くひとつの意味です。

でも失敗したら、雪が崩れて、また道をふさいでしまうから、それも恐い。

できるだけ、みんなが通るべき、正しく、楽しい道をひけるように。そんな文化的雪かきをしていきたい。

 

この解釈は素敵なものだと僕は共感した。

確かに現代社会は情報という雪が降り積もってる。それは道を見えなくさせ、標識も見えなくなり、景色という先の光景すらも見えなくなっている。

私は情報化社会とは標識だらけのレールの上を歩かせるものだと思っていたが実際には自分がどんな道を歩いているかもわからず、標識すらも見えないのではないのだろうか。

しかし多くの人間はレールの上を歩いているのだと思い込んでいる。それは雪道なのだから他人の足跡が付く。雪の上を通るとき人は他人の足跡を頼りに進むのだ。

だから、自分は他人の通った所を歩く、つまりはレールの上を歩いているのだと感じるのだろう。

 

だから誰かが雪かきをしなければならない。道を示さなければ他人の足跡しか頼りにできないからだ。

 

つまるところこのブログの存在意義も「雪かき」なのだろう。Twitterは雪を降らせるところであり、だから雪かきしても不快感しかないのだ。

 

フォロワーは雪だるま共だ。だから春が来れば溶けて砕ける。こないだも一人のフォロワーが溶けて砕けた。

 

だがまた冬は必ず訪れる。その時彼は雪だるまとして戻ってくるのか。一度溶けて砕けた雪だるまに居場所はあるのか?

 

その時まではわからない。

 

 

 

 

この雪かきの説明自体が雪かきかもしれない。

 

僕にとっても雪かきな出来事があった。年金問題でよく金の話(財政的な問題)になっているが実際は財政になんの問題もなく破綻もありえないということだ。

 

MMT(現代貨幣理論)という理論を勉強していく内に理解したことだ。僕がMMTで雪かきをしなければならないのかもしれないが、ほかの方々がやってくれてるからいいだろう。またいつか記事で書こうと思っている。